ここに一着のスーツがあるとする。そのジャケットをハンガーから外して片手で持ち、それからさっと袖を通してみる。どうだろう。持っていたときほどの重みを、あなたの肩は感じているだろうか。もし「軽い」と感じたなら、そのジャケットはきっと、美しく繊細なカーブを描いているはず。例えば首から肩にかけて。肌に沿うようになめらかな、曲線を見つけることができるだろう。あるいは背中や胸にも同様に。
仕立てのいいスーツとは、つまりそういうことだ。身体の線に沿って立体的に作られているから、生地の重みが肩だけにかからない。首から背中にかけて広く分散されて、軽く心地よいと感じる。試しにそのまま腕を上げてみてほしい。肩は窮屈を感じることなくすっと動き、それでいて極端に浮くことはないはず。ラペルも暴れることなく、しなやかにそこにいるだろう。軽快なスーツは動いても美しい。それは生地のグレード以上に仕立てのよさに由来するのだ。
まっすぐの生地から作られるはずの、立体的なスーツ。平面を曲面にしてそれを繋げていくから、心地よくフィットする。そこにはたくさんの複雑な工程と、熟練の技術が必要だ。しかも既製服として量産するとしたら。丁寧さと合理性とこだわりとスピードが同時に求められるとしたら。ユナイテッドアローズのメイド・イン・ジャパンのスーツ。その確かな品質を支える現場へ向かった。
栃木県の北東部に位置する大田原市(旧那須郡黒羽町)にその工場はある。NASU 夢工房。熟練の技術者たちが働いている場所とは思えないような、なんというかラブリーな名前だ。工場は敷地ごと野球グラウンドにすっぽりとおさまりそうな、こぢんまりとした2 階建て。周囲には住宅がゆったりと立ち並んでいる。縫製工場というと、ミシンやプレス機などの機械音を想像するが、細く開けられた窓からは、わずかに漏れ聞こえるほどだ。
ここは《ユナイテッドアローズ》をはじめ、アパレルメーカー、そしてオリジナルブランドのスーツを生産する国内有数の工場。85 人ほどの従業員によって、1 日に約100 着を生産し、年間ではおよそ26,000 着を世に送り出す。そしてそのどれもが、イタリアのレディメイドスーツの縫製工法をベースに、独自に発展させた生産ラインによって作られている。“ 職人気質の現場”。そんなイメージが、この静かで気取りのない工場の佇まいとは、なかなか結びつかない。それでも中に通されてしるしを見つけた。「一針入魂」。事務所の壁に掛けられた大書は、ほんのりと日焼けしていた。きっと長くそこにあるのだろう。
NASU 夢工房は、その前身となる那須カインドウェアとして1973 年に設立された。宮内庁御用達の儀礼服を手がけ、日本のフォーマルの礎を築いた。カインドウェア社はイギリスのビスポークテーラーである《ハンツマン》や、アメリカの紳士服メーカー、《ハートシャフナー&マークス》などの海外の名門と技術提携を進め、よりよい既製品としてのテーラードスーツを追求する気風があった。そして85 年、「イタリア工法」と呼ばれるレディメイドのスーツ作りと出会う。取引先の百貨店よりイタリア系アメリカ人のモデリスト、レオ・ロッジ氏を紹介され、10 年にわたって技術指導を受けた。生産ラインも徐々にそのイタリアの工法にシフト。技術が熟し経験を積むにしたがって、その着心地のよい立体的な仕立ては業界から注目を集めるようになっていった。2001 年に現在の社名へと変更してからは、より柔軟な対応で受注の間口を広げた。《ユナイテッドアローズ》のスーツも、その頃からここで作られるようになった。
「いいスーツには5つの条件があります」
工場の生産現場を統括する責任者であり、現在のラインを築き上げた鈴木豊二さんは教えてくれた。
「まず、襟が首にフィットすること。肩があたらないように前肩の設計になっていること。さらにシルエットが立体的で美しくあること。袖も立体的であること。そしてフロントとラペル、裾が美しく仕上がっていることです」
まさに理想的なスーツの形だ。それを実現するためのイタリア式をベースにした生産工程は250 から300 に及ぶ。通常、国内で行われているスーツの工程が180 程度だといわれているから、いかに手間がかかっているかがわかる。特徴的なのは、中間プレスとクセ取りいわれる工程。身頃や袖など裁断されたパーツを縫い合わせるたびに、プレスマシンやアイロンを使って立体感を出していく。これにより、より身体に沿った繊細な曲線を出すことが可能になる。精密な縫製には欠かせないが、手間のかかる作業だ。さらに、スーツ作りにおいて重要とされる、芯を身頃に据える作業の前には、生地をリラックスさせるために2 時間以上も加湿するという。
あるいは、棒襟や前肩といった、独特の着心地をよくするための設計も複雑で高度な技術を必要とする。
「麻の襟芯を使って、棒襟の設計をしているのは、わたしたちの工場の最大の特徴と言えます。手間は普通のカマ襟に比べて倍の工程数になりますし、丁寧な仕事も必要ですが、首に吸い付くようにフィットして、ネックの中央に重心がかかるようになります。それで肩に重さがのらなくなるんですね。前肩の設計も実際に縫製によって作るのは難しい。イセ込みの分量を、通常よりも多くとらなくてはならないですから」
鈴木さんは工場の中を案内しながら教えてくれた。そこで働いている人たちは、若い女性から見るからに熟練という感じの人まで年齢層は幅広い。それぞれが自分の受け持つ工程のミシンやプレス機、アイロンを黙々と動かし、スーツの一部分であろうパーツを縫い進めていく。その動作はキビキビと小気味よく、流れるようにスムーズ。時折、ライトの下でチェックをしたりはするけれど、縫い進める方向に迷いはないように見える。
「どの工程も簡単には真似できませんよ」。鈴木さんはそんな光景を見ながら言った。「そのくらいの技能を、それぞれみなが持っていますから。長い人では30 年、40 年もやってくれている人もいます。うちの会社は定年がないんです。技能を持っている人はね。だから私もここにいれる。今年で73 歳です。本人のやる気さえあれば働ける。私より高齢の人はもういないけど、60 歳を過ぎても働いている人はけっこういるんですよ。彼らは間違いなく職人です」
イタリアの技術をベースに、独自の改良を加えて築き上げた、NASU 夢工房のスーツ作り。日本の縫製業の衰退が言われるようになって久しいが、そんな中でも手間を惜しまない、メイド・イン・ジャパンならではの高品質な仕立てを守り続けている。鈴木さんはその最前線に45 年間立ち続けてきた。これからも間違いなく立ち続ける。
「まだ飽きないですね。飽きないから、大宮のほうから、わざわざはるばるここまで通っています(笑)。スーツを作るのは楽しいですから。これまでもそうしてきたように、クオリティを落とすことなく、もっと生産性をあげていく工程も考えていかなければいけません。実はですね、最初は国内の縫製方法にプライドを持っていたので、『海外から技術指導に来た』と言われても、私は『何くそ』って思っていたのですよ(笑)。でもやっているうちに、イタリアの作り方が面白くなりました。着心地が良くて美しい。今ではこれしか考えていません。この方法で、もっといいスーツを作りたいと考えています」
そう言って鈴木さんは「当然。毎日」と付け加えた。ようやくわかった。この工場には意志と情熱が宿っている。プレス機から出る蒸気がふわりと揺れた。