
ウツワ
2019.12.05 THU.
すべてはお客様のためにある
ユナイテッドアローズの30年
ユナイテッドアローズは、90年代、00年代、10年代という、日本のファッションビジネスが大きく変化を遂げてきた時代に消費者の支持を得て成長を続けてきました。今回、創業30周年を迎えた節目のこの機会に、繊研新聞ではこの稀有なファッション小売り業の歴史を振り返り、なにがこれまでの成長を支えたのか、文字通りその「軌跡」を改めてたどり、検証したいと考え、ユナイテッドアローズに【軌跡】の連載企画にご登場いただくことにしました。設立から現在に至るまでの歩みを上中下の3回に分け、詳細にたどっています。
【軌跡】は、ファッションビジネスの専門紙、繊研新聞で毎週月曜日の紙面に掲載している連載企画です。
※この記事は10/7、21、28の繊研新聞「軌跡」を転載しています。
Text_Masayuki Kashiwagi(SENKEN SHINBUN)
今年で創業30周年を迎えたユナイテッドアローズ。時代の変化に沿って様々な業態を開発し、収益を拡大してきた。売上高は今や1600億円に迫る。セレクトショップとしては唯一の上場企業でもある。その歩みは順風満帆だったわけではない。挑戦と失敗を繰り返し、そのたびに「すべてはお客様のためにある」という商売の原点に立ち返って軌道修正し、これまで成長を続けてきた。
新たなスタンダードをつくりたい。それが創業の出発点だった。
創業者で初代社長の重松理は大学卒業後、レディスアパレルに務め、76年にビームスの立ち上げに加わった。草創期のインポート主体の時代には商品買い付けを担った。メンズからレディスやドレスなどに扱いを広げた80年代後半、セレクトショップとして同社が成長し始めた頃、重松は新規事業を構想する。
それは「衣」に加え、「食住」もカバーする、今でいうライフスタイル型事業だったが、ファッションの商売が順調に伸びていたビームスで、このアイデアが日の目を見ることはなかった。重松はこのとき常務にまで上り詰めていたが、自分の着想を実現するため、自ら起業することを決めた。
計画を持ち掛けたのはワールド。同社は当時、若い客層を捉える新規事業や小売り参入に関心を持っていた。神戸へ赴き、創業者で当時社長だった畑崎廣敏に直接プレゼンした重松は、その場で共同出資の承諾を得た。ともに働いていた仲間とビームスを退職し、89年10月にユナイテッドアローズを設立した。
日本の生活文化の新しいスタンダードを作る、を掲げてスタートした同社は「マリナ・ド・ブルボン」の販売代行を経て、90年7月、「ユナイテッドアローズ渋谷店」をオープンした。売り場面積は243平方メートル程度。もくろんでいたほどのスペースは取れず、家具など住関連商品を置くことはできない。
デスク回りの文具など雑貨もあったが、品揃えの主力は服。重衣料は「サウスウィック」「イザイア」。シャツは「アイクベーハー」「インディヴィジュアライズドシャツ」「バグッタ」など、多くは、欧米から仕入れた。オリジナルのスーツやセーターも名の通ったメーカーで作った。
「東京都渋谷区神宮前6丁目明治通り沿いに出した1号店はオープン直後こそ好調だったが、その後バブル崩壊で一転苦戦を強いられた」
沿革
- 89年10月
- ユナイテッドアローズ設立
- 90年7月
- 1号店を渋谷にオープン
- 92年10月
- 原宿本店をオープン
- 99年7月
- 日本証券業協会(現ジャスダック)に株式を店頭登録
- 99年9月
- グリーンレーベルリラクシングの本格出店開始
- 99年12月
- クロムハーツ事業の本格出店を開始
- 00年10月
- アウトレットモールへの出店を開始
- 02年3月
- 東京証券取引所市場第二部に株式を上場
- 02年9月
- オデット・エ・オディールスタート
- 03年3月
- 東京証券取引所 市場第一部に銘柄を指定
- 03年8月
- ドゥロワースタート
- 04年6月
- 岩城哲哉社長就任
- 05年9月
- ゾゾタウンに出店
- 05年11月
- フィーゴ会社化
- 08年5月
- 子会社コーエン設立
- 09年4月
- 重松理が社長に復帰
- 09年9月
- 自社ECサイトオープン
- 12年4月
- 竹田光広社長就任
- 13年10月
- ユナイテッドアローズ台北店オープン
- 18年5月
- 物流拠点再編、千葉県流山市で新物流センター稼動
- 19年4月
- 経営理念を7年ぶりに改定。
バブル崩壊で最初の失速、でも、何とか立て直し、黒字化した。
店はオープン直後の8月だけで5000万円を売り、好調な滑り出しを見せた。だが翌年早々、バブル景気が終焉を迎えると、途端に売れ行きが止まった。勢いが続くことを前提に大量に仕入れた在庫が残った。こだわりを持って仕入れたドレス系の高額な商品だけでは商売が回らないことは明白だった。
立て直しに向け、二つの手を打った。まず92年にメンズカジュアルのオリジナル「ブルーレーベル」をスタートした。インポートより買いやすい価格帯のオリジナル商品を増やすことで客層を拡大しようとした。これが売れた。後に同様の考え方でウィメンズの「ピンクレーベル」も作った。
ブルーレーベル
ピンクレーベル
もう一つは出店を増やすことだった。原宿本店を92年10月に出すまでに、福岡、名古屋、二子玉川、柏と相次ぎ出店し、フランチャイズで大分、旭川にも店を出した。オリジナル商品の仕入れロットを増やし、粗利益率を高めるほか、膨らんでいた在庫を分散し、売り上げを取っていく狙いもあった。
原宿本店がオープンしてからも売れ行きは伸び悩んだ。出店を進めたコストもかさみ、赤字が続いていた。だが、93年の秋口に状況は一変する。残暑で立ち上がりが遅れていた秋物が突如売れ出し、95年3月期に単年度黒字化を果たし、96年3月期にはついに累積赤字を一掃した。
売れるものを作り、売ればいい。店頭での気づきが成長の契機に。
商品力と知名度が高まり、収益が改善し始めたことを受け、同社はさらに出店を加速した。店頭での販売は順調に伸びた。だが、この時期の同社は、客が欲しいと思う適切な商品を適切な価格で適量作り、適切な時期に適切な場所で売るという「五適」の考え方をまだ確立してはいなかった。
この「五適」を店頭で最初に実践したのが藤澤光徳(現取締役専務執行役員)だ。97年に有楽町西武店の店長だった藤澤は、まだ自社企画が少なく、期初に仕入れた商品をシーズン中ずっと売り減らしていく当時の仕入れと販売のサイクルが、百貨店の売り場環境では全く通用していないと考えていた。
秋物も冬物も8、9月にいっぺんに店に入荷する。冬物がもっとも売れる10~12月になると、自店の店頭にはめぼしい冬物商品はほとんど残っていない。藤澤は重松に直談判し、有楽町店だけの仕入れ枠を確保した。次の秋冬から、何月に何がどれくらい売れるかを見極め、販売目標を設定し、納期も実売期に合わせて発注をかけた。
前年の販売実績ももちろん参考にしたが、藤澤は独自商品を何にし、どれだけ、いつ仕入れるかを決める判断を自店の販売員に委ねた。丁寧な接客で商品を売る手法は今も同社の強みの一つだ。だが、販売員は日々変化する客のニーズをバイヤーなど本社勤務の社員より早く、敏感に察知できる存在でもある。
果たして有楽町店が独自に仕入れたウィメンズのジャケットやコートは、プロパー消化率が90数%に達した。行き詰まったとき、客との接点である店頭に解決の糸口を求める。ユナイテッドアローズが現在まで貫くこのスタンスは、こうした現場での成功体験の積み重ねから形作られていった。(敬称略)
(繊研新聞2019年10月7日付に掲載)
全てを現場に委ねたら、お客様目線で何をすれば良いか見えてきた。
96年3月期に累損を一掃すると株式公開の準備に入った。社外に開かれた、公の会社になることを設立当初から目指していた。上場に向け、様々な条件整備を進めたが、何より企業としての成長性が問われた。「ユナイテッドアローズ」は高感度の品揃えゆえに客層が限られる。新業態の開発は不可欠だった。
創業から10年が経ち、ユナイテッドアローズの顧客も年を重ねていた。家庭を持つなど生活の変化から、ファッションに費やす可処分所得も減っていた。価格帯を抑え、家族で買い物ができる店を作れば客層を広げられる。そんな考えから生まれたのが「グリーンレーベルリラクシング」だ。
「グリーンレーベルリラクシングは、商品調達と販売サイクルがかみ合い始めて以降、主力業態の一角として成長していった」
まず実験店を98年8月、原宿に出した。だが、立地と商品特性がかみ合わず、翌年に仕切り直し、メンズ、レディス、子供服もあるファミリー向けSPA(製造小売業)として出店を本格化した。新宿、町田のルミネを皮切りに港北、舞浜に出し、郊外SCへも出店立地を広げていった。
その後もなかなか成長軌道に乗り切れなかった。当時ユナイテッドアローズから異動し、グリーンレーベルの販売担当だった藤澤光徳(現取締役専務執行役員)は再び重松理(当時社長)に直談判した。「結果は出す。すべて自分に任せて欲しい」。00年に商品も販売も統括するグリーンレーベルの部長に就任した。
「必要な商品が必要な時期に必要な量あればいい」。藤澤は有楽町西武店時代に体得した「五適」をここでも実践した。客の求める商品を現場目線で見極め、52週MDの考え方を導入し、シーズンの商戦のヤマに合わせて適品を適量、適時販売できる仕組みを整えた。ばらばらだった店のVMDも統一した。
商品調達と店頭での販売のサイクルがかみ合うようになると、シーズンのピークに合わせて販促を仕掛け、店頭で集中的に売ることもできるようになった。売り上げは伸び、収益性も高まった。06年3月期にはグリーンレーベルだけで売上高100億円を突破、利益面でも全社業績に貢献するようになった。
ユニクロショックの教訓。大切なのは安さではなく、正しく作り、売ること。
グリーンレーベルのスタートと同時期、ユナイテッドアローズ業態は駅ビルやファッションビルへの出店を本格化した。それまで路面か、施設内でも通りに面した立地への出店が主だったが、98年の新宿フラッグスを皮切りにルミネ横浜、池袋パルコなど、ターミナル立地の商業施設内の店を増やしていった。
99年7月には店頭市場(現ジャスダック)で株式公開も果たした。利益も出し、成長性も見込める点が高く評価され、公開初日は公募価格の2倍近い1万5000円の初値を付け、9月には2万4200円の最高値を付けた。だが、その後株価は下落の一途をたどる。既存店売上高が前年実績を割り込み始めたのだ。
店頭公開前の98年11月、郊外立地が主力だったユニクロが初の都心店を原宿に出した。この年、フリースが大ヒットし、メディアの注目も一気に高まった。話題の店を視察した重松ら幹部社員は、自店で5800円のボーターTシャツを、ユニクロは1000円で売っていることに衝撃を受ける。
無論、両社の商品は厳密には同じではない。だが、原宿本店の近くで、ベーシックな商品をはるかに安く売るユニクロを脅威に感じ、バッティングする商品をユナイテッドアローズ業態の店頭から下げてしまった。補完する商品があったわけではなかったため、核商材を欠いた売り場では客離れが起こった。
ユニクロショックはその後2年続き、01年3月期は増収減益を強いられた。株価も00年11月には最安値の640円まで下がった。立て直しが急務だった。当時専務の岩城哲哉(現相談役)が陣頭指揮を執り、商品計画を見直し、12カ月から週単位に細分化して、計画的にMDを組む手法に切り替えた。
この「MDカレンダー」の導入で、1年間の品揃えスケジュールを週次で設定し、感覚的に仕入れず、シーズンごとにあるべき商品が店頭に並ぶようになった。販促や広告宣伝とも連動し、仕入れ、販売、宣伝の流れ全体が社内の誰にでも一目で分かるよう可視化された。これにより店頭での販売は復調した。
「カジュアルの別ラインとしてスタートした「ビューティ&ユース」。トレンドに沿う企画強化で、徐々に売り上げを伸ばした」
試行錯誤を繰り返す中で、店が育ち、商売の仕組みが進化した。
02年3月期を大幅な増収増益で終え、03年3月には東証一部上場も果たした。V字回復に貢献した岩城は副社長を経て、04年6月に社長に就任した。そして11年3月期に売上高1000億円を目指す方針を出した。05年3月期の売上高は463億円。それを6年で2倍以上にするという野心的な計画だった。
目標達成に向け、同社は新業態開発を一気に進めた。05年にシニア市場を狙った「ダージリン・デイズ」、06年にグリーンレーベルリラクシングからウィメンズ専門の「ファサードグリーン」、メンズの「オドナタ」、07年にディズニーと協業した子供服ブランド、スポーツブランドの「サウンズグッド」、大人女性向けの「フランクウィーンセンス」もスタートした。
一連の新業態開発は、ユナイテッドアローズ、グリーンレーベルではカバーできない客層をつかみ、成長を加速させるのが狙いだった。だが、市場に根付くことはなく、その後08~09年にかけて撤退、あるいは本体の主力事業に吸収されていった。

この時期スタートし、唯一主力事業として成長を遂げたのが「ビューティ&ユース」だ。ユナイテッドアローズ業態のカジュアルラインを分離独立した。その前身は92年に立ち上げた「ブルーレーベル」だ。ドレスに特化したユナイテッドアローズの出店は抑え、ビューティ&ユースで店舗数を増やす戦略を06年からスタートした。
だが当初は、知名度もなく、明確な商品特徴も打ち出せていなかったため、苦戦した。ビューティ&ユースの副本部長だった松崎善則(現取締役第一事業本部長)は「商品と店を磨き、人材育成も同時進行。商売で大事なヒト、モノ、ウツワの3要素を急ピッチで徹底的に整備した」と当時を振り返る。
アメカジ色の強い定番を下げ、ストリートっぽいアイテムを増やすなど、客層分析に沿って、当時のトレンドを取り込み、ニーズに応えることのできる品揃えへと徐々に変えていった。古参社員からは「ブルーレーベル変わっちゃったね」とも言われたが、この施策は当たり、店が増えるごとに売り上げは伸びていった。(敬称略)
(繊研新聞2019年10月21日付に掲載)
2度目の躓きから商売のプロセスを可視化。商・販・宣の連携が進んだ。
05年3月期から2期連続で増収増益を果たしたものの、07年3月期から3期連続で増収減益を強いられた。事業規模拡大に向け、業態開発を重ね、出店を増やしたことで経営資源が分散した。自主企画商品の強化が裏目に出て、商品企画・生産と販売の連携に歪みが生じたことも要因だった。
業績不振の責任を取る形で重松理は会長から社長に復帰、副社長に降格した岩城哲哉とともにユニクロショック以来となる業績立て直しに奔走した。重松は収益を圧迫していた事業を整理し、肥大化していた商品系の人員も減らし、経費を圧縮した。岩城は売り場の声をMDに反映する仕組み作りを担った。
岩城は人見(輝=故人、当時取締役常務執行役員)と2人で「MDプラットフォーム」を構築した。必要な商品が奥行きを持って確実に供給できる仕組みであり、それを見れば企画から生産、仕入れ、店頭への適時投入、期中の修正が社内の誰にでもできるようにするカレンダーを3年かけて作り上げた。
この動きの少し前、08年に組織を「ユナイテッドアローズ」、「ビューティ&ユース」「グリーンレーベルリラクシング」、事業開発の4本部制に再編し、各本部を執行役員が主管する体制に再編した。主力事業単位で収益責任を負う仕組みにしたことで、本部単位で採算を強く意識をする姿勢が醸成されていった。
06年に一度スタートしたが、予想以上にコストがかさみ、08年2月に閉鎖した自社ECサイトも体制を整え、09年に再オープンした。ネット経由の販売自体も増えていったが、実店舗以外からも購買データが得られるようになり、客層分析や需要予測など、ニーズを先取りして手が打てるようになった。
一連の施策が実を結び、10年3月期は4期ぶりに増収増益を果たした。だが、リーマンショック後の景気低迷でファッション消費が停滞していた時期だったこともあり、消費者との接点をさらに拡大する必要があった。専用業態を開発し、空港や駅ナカへの出店を開始したほか、ライセンス事業にも乗り出した。
立地特性に応じた品揃えで客との接点を増やそうとスタートした「ザ ステーションストア ユナイテッドアローズ」
会社が何のためにあるのか。理念を改定し、社員の気持ちを一つに。
12年4月、竹田光広が社長に就任した。商社から重松に引き抜かれ、05年に入社した竹田は、商社時代の経験を生かし、ブランドビジネスや生産機能の整備などに携わってきた。新社長として竹田はまず経営理念を改定した。05年以降、経営の立て直しに時間を取られ、次回の改定が遅れていた。
2012年10月に新しくなった理念ブック(3冊セット)
竹田は「小売り出身ではない自分が社長の重責を担えるのは、拠り所として経営理念があるから。社員全員がもっと近く感じられるものにしたい」と考えていた。将来の海外出店も視野に入れた理念を考案し、その内容を社員向けに綴った小冊子も、改定した部分を含めより分かりやすい内容に作り替えた。
業績は好調に推移していた。次の成長ステージに向け、長期ビジョン「UAビジョン2022」を13年度からスタートした。22年3月期に連結売上高2200億円、経常利益264億円という目標を掲げた。新規事業開発、海外市場への進出を施策に盛り込んだ。13年10月には台湾に海外1号店を出した。
新規事業は14年にセレクトになじみのない女性客向けの「アストラット」、シューズとバッグの「オデット・エ・オディール」から派生した手ごろな価格のシューズ「ボワソンショコラ」、百貨店向けメンズの「ボウ&アローズ」、ファッションにスポーツの要素を組み合わせた「アンルート」をスタートした。
ところが同社の業績は、15年3月期から再び減益局面を迎えてしまう。13年からの円安で調達コストが上昇し、商品価格を値上げしたことや14年4月の消費増税など外部要因も影響したが、何より、相次ぎスタートした新規事業が軌道に乗らず、かさんだ経費が収益を圧迫したことが大きかった。
新規事業に人と金をかけた分、主力事業も店舗改装や商品力強化などが後手に回り、「五適」を満たすために必要な販売と商品企画、宣伝の連携も緩んでいた。竹田は当時を「拡大に向けた施策がすべて自分たち目線で、円安を理由にした値上げ一つとっても丁寧な対応ではなかった」と振り返る。
常に理念に立ち返る。その姿勢がユナイテッドアローズを成長させた。
すぐに3度目の立て直しに取り掛かった。主力事業では梅春、春、夏、初秋、秋、冬の6区分だったMDを梅春、春、初夏、盛夏、晩夏、初秋、秋、冬の8区分に細分化することにした。気温変化に応じてきめ細かく商品供給し、店頭の鮮度向上と、拡大傾向にあった実需買いにより柔軟に対応する狙いだった。
このシーズンMDの細分化はオリジナル商品の比率が高いグリーンレーベルに先行して導入され、同業態が主力業態の一角として飛躍するきっかけを作った。その後「ビューティ&ユース」もオリジナル商品でMD細分化を図り、同時に進めたウィメンズ商品の強化で客層を広げると、業績の回復が進んだ。
「ドレスとカジュアルの垣根がなくなっていることに対応し、17年からはユナイテッドアローズとビューティ&ユースの総合店も増やしている」
16年には長期ビジョンの目標を取り下げ、収益基盤の抜本強化をさらに急ぐことにした。聖域を設けず不採算事業も見直した。ボワソンショコラ、ボウ&アローズ、「アナザーエディション」は撤退し、アストラット、アンルートはオリジナルレーベルとして主力業態の品揃えの一角として継続することにした。
17年11月には横浜店をリニューアルし、ユナイテッドアローズとビューティ&ユースの売り場を統合した。これ以降、同様の総合店を増やし始めた。ドレスとカジュアルの客層の違いから分割した両者だが、10年以上経過し、商品分野の垣根を超えて買い物したいというニーズが増えていると判断したためだ。
一連の施策が奏功し、18年3月期から2期連続で増収増益を果たした。19年10月2日に創業30周年を迎えた同社の歴史を振り返ると、一貫して売り上げ規模は拡大してきたものの、利益面で落ち込みをたびたび経験しており、思い描いた計画が最初からうまく行った事例は意外なほど少ないことに気付かされる。
業績が落ち込んでも、同社が成長軌道に復帰することができたのは、そのたびに店頭の声を商品企画に反映し、生産、販促と連動させる「商・販・宣」の仕組みに立ち返ることできたからだ。そしてその原動力は「すべてはお客様のためにある」という創業以来変わらぬ経営理念にあると言える。(敬称略)
2019年4月に新しくなった理念体系(経営理念、社是、社会との約束)を表現したムービー
(繊研新聞2019年10月28日付に掲載)
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繊研新聞
繊研新聞は、今年(2019年)で創刊から71年目を迎える、ファッション業界に特 化したビジネス専門誌です。ファッション産業のバリューチェーン全ての業種を網羅的に取材しているほか、コレクションからストリートに至る、ありとあらゆる最新、最旬のファッショントレンドもお伝えしている新聞です。
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